かってにPR

2015年4月 6日 (月)

「HOME Jステーション」で上田昆布が紹介されました!!

久々の更新になります!

少し前の話になりますが、2月11日に地元広島のテレビ局「広島ホームテレビ」さんのニュース番組「HOME Jステーション」の中の「老舗の売れ筋」というコーナーで上田昆布を紹介して頂きました\(^o^)/

そのコーナーの中で、現在の主力商品「とろべ~」や「梅カムこんぶ」を取り上げて頂いたり、私が生まれる以前の上田昆布の社内風景や昔の商品の写真なども見ることができました。

弊社は販売方法は少しずつ変わっていますが、昆布にこだわって作り続け、今年で創業100年を迎えます。

お店で見かけたり、「口寂しいな。」と思った時に弊社と弊社の商品を思い出して頂けると嬉しいです。

(商品を買って頂けたらなお嬉しいです!!)

2011年8月25日 (木)

昆布の歴史6/6最終章

「昆布の歴史6/6」

さて、明治維新を向かえ、日清、日露戦争へと富国強兵路線が国策となります。戦争の是非

は別として、広島はこの前後大きな発展を遂げます。あまり知られていませんが、明治27年

に広島に大本営が設置され、続いて36年呉の海軍工廠設置ー後に戦艦大和などを造りま

すがー以来大陸進出の拠点として、兵站基地としての役割を担い、後の太平洋戦争まで続

きました。広島の宇品港は全国から軍人が集められ、ここから大陸へ出征してゆきました。

このころから前後して、広島周辺では食の確保が重要となり、昆布加工業もずいぶん発展

しました。輸送船に乗せる保存食、あるいは大陸にないものを輸送船に乗せるためです。

仕事を求め大阪の昆布業者が多くこの地に流れてきました。昆布の本場だった大阪のノウ

ハウと広島の加工業がドッキングしたのは想像に固くありません。いま、この地で昆布業者

を営んでいる人の多くはその末裔であろうと思われます。当社の創業者も大阪弁の人に昆布

加工の手ほどきを受けたそうです。

以上、長々と昆布の歴史をお話しましたが、いずれにしても広島はあまり知られていません

が、昆布加工については本場なのです。日本昆布協会という昆布業者で構成する組合

(全国で110社)があるのですが、広島県には25社ほど会員がいます。こんなに多くの会員

がいる県は、先ほど申し上げました富山、福井、大阪、京都、兵庫、いずれも昆布ロードの

線上ですが、それ以外はありません。多くの県では、昆布を扱ってはいても、昆布専業は

一軒もないのが普通です。

当社はそんな昆布の本場の広島で育った筋金入りの昆布屋です。作っている昆布製品は

異色ですが、このような歴史のなかの一頁を確実に刻んでいます。「おしゃぶり昆布」という

名称、商品は当社三代目が作り、世に出しました。

江戸時代、高田屋嘉兵衛さんが、はるかエトロフ、歯舞、釧路から持ち込んできてくれた昆布

を今でも加工して販売しているのが、広島の昆布屋です。

(完結)

2011年8月23日 (火)

昆布の歴史5/6

「昆布の歴史5/6」

話が横道にそれましたが、道東の昆布が西日本に大量に運ばれるようになりました。瀬

戸内海で嘉兵衛さんが立ち寄ったと思われる港周辺ではこの「ながこんぶ」が下ろされたでし

ょう。下関、北九州、広島、尾道、小豆島、明石、神戸、そして勿論淡路島には現在でも名だ

たる昆布屋さん、佃煮屋さんが数多く存在します。九州へ上がった昆布は遠く鹿児島に行

き、琉球(沖縄)へ行きます。これは有名な話ですが、沖縄では豚と昆布を煮て食べる習慣が

あります。一人当たりの昆布消費量は日本一で、このためか長寿も日本一だそうです。

また、これも有名な話ですが、「篤姫」で話題になった薩摩藩が琉球と昆布を貿易し、藩

財政が豊かになったとの事。

この「ながこんぶ」は関西方面の「だしをとる」文化とは別の文化をうみました。所謂「食べる

昆布」といいますが、昆布業界では「西海型」と呼ばれ、煮昆布あるいは佃煮が発達しまし

た。業界用語で、昆布を単純に手ごろな大きさに切って売るのを「葉売り」といいますが、それ

に対し佃煮などを「加工品」といいます。この加工業が大変発達しました。これには理由があ

りまして「ながこんぶ」は「出しをとる」昆布というより、醤油といいますか、調味料で適度に味

付けし煮て食べるのに適した昆布だったからです。今日の、例えば当社のおしゃぶり昆布な

どはこのような伝統といいますか、習慣でやってきたことの延長線上にあると思われます。佃

煮も同じです。

(つづく)

2011年8月20日 (土)

昆布の歴史4/6

「昆布の歴史4/6」

高田屋嘉兵衛という人は、淡路島の生まれの人ですが、赤貧の幼少時代を経て、船乗りとし

て頭角をあらわし、持ち前のバイタリティーでそれまで未開の地だった道東から現在の北方

四島まで航路を開発し、当時千島列島を南下してくるロシアとの国防を急ぐ幕府に協力しエト

ロフ島とクナシリ島間の航路を開き、新たに漁場を開くなど活躍します。その後不慮の事故

に遭遇、ロシア側にとらわれの身になり、カムチャッカに幽閉され-その少し前ロシアの軍人

が日本側に侵入したため、とらわれの身になっていた。嘉兵衛はその身代わりのような形で

捕えられた-ますが、ロシア側に言葉をつくし説得し幕府側との和解を成功させ自分自身を

含めての「人質交換」をし、日本に帰る、という数奇な運命をたどった人です。函館の町は彼

が作ったようなもので今では銅像が建っています。詳しくは司馬遼太郎著「菜の花の沖」を読

んでみてください。面白い本です。

(つづく)

2011年8月16日 (火)

昆布の歴史3/6

明日から仕事・・・その前に

「昆布の歴史3/6」

 さて、この昆布が、室町時代になりますと、船舶が大型化し、廻船問屋が発達してきした

。北前船という大型船が日本海を通って酒田、富山そして敦賀へと、所謂「昆布ロードが開

かれました。敦賀から京都へは「鯖街道」 ー京都は内陸のため魚がないため塩鯖が珍重

されていた。今でもしめ鯖は京都の名物ー が既にあり、これを利用し、昆布が流通しま

した。

当時の東山文化とあいまって、今日の京料理の発祥となったらしく、関西の出し文化の形成

に大きな役割をはたしました。

 その後、太閤秀吉の時代になり、大阪が「天下の台所」として諸物産の流通基点となりまし

た。徳川の時代にもこれが引き継がれ江戸を中心とした商品経済を下支えします。昆布も

敦賀のほうから京都、大阪へと陸路(琵琶湖、淀川も利用)で運ばれていたようです。

大阪では主として道南産の「まこんぶ」が珍重され、俗に「食い倒れ」といわれる独特の「まこ

んぶ文化」を形成しました。

 陸路、昆布を運ぶのは大変だったと思いますが、1600年代になって幕府は兵庫の河村

端賢という人に海運の開発を命じます。幸いに神戸の海は水深が深く(小さな川しかない。

それに引き換え大阪は淀川が大量の砂を運び推進が浅くなっていった)大船の停泊に便利

だったようで、天下の台所の外港として機能するようになりました。端賢は下関周りで日本海

を通り出羽(東北)に至る航路を開発し、米が流通するようにしました。

 その後1700年代に入り高田屋嘉兵衛という商人が兵庫からエトロフ航路を開発し、釧路、

根室方面の「ながこんぶ」を大量に西日本方面に持ち込みました。これより先にいいました

敦賀、小浜で止まっていた「こんぶロード」に下関周りの西廻り航路が追加され、瀬戸内海

を海路で昆布が大量に流通するようになります。

(つづく)

 

2011年8月12日 (金)

昆布の歴史2/6

今日は長文です。最後までお読み頂ければ幸いです。

「昆布の歴史2/6」

 『続日本記』(797年)の記述に蝦夷の須賀君古比留(すがのきみこまひる)らがやってき

て、昆布を献上した、とあります。これが、古文章にでてくるコンブに関する最古の記述で

すが、「祖先以来貢献昆布」と書いてありますから、少なくともそれ以前の古くから食べられて

いたものに違いありません。

 それはともかく、「昆布」という言葉は既にこのこらから使われていて、日本語としても古い

わけですが、どうも語感からいいますと、アイヌ語だったのではないかと思われます。例えば

「カズノコ」ですが、アイヌ語でニシンのことを「カド」というそうです。「カドの子」が変化して「数

の子」になった、というせつ説があるそうです。

 余談ですが、北海道の各地に地名は、アイヌ語が多く、現在の漢字の地名は当て字だそ

うです。根室(ネモロ)、納沙布(ノシャップ)、広尾(ビロー)、落石(オチイシ)、様似(サマニ)、

厚岸(アッケシ)、釧路(クシロ)、長万部(オシャマンベ)、・・・などです。

そういえば「昆布」もなんとなく本来の日本語としては、不思議な言葉だと思います。

 昆布はこのように日本人にとって古くからなじみの深い食品として愛用されたものです。

何よりも食物繊維、ミネラルなどが豊富にあって健康によいということもさることながら、味そ

のものが非常に日本人好みであった、ということがその要因と思われます。最近、アメリカと

かフランスなどで日本食ブームだそうですが、「旨み」という食文化が世界に認められつつあ

ります。これも余談ですが、「味の素」は最初ー今はわかりませんがー昆布から抽出したグ

ルタミン酸から作ったそうです。

(つづく)

2011年8月11日 (木)

昆布の歴史 1/6

昆布の歴史について・・・原稿は既に出来上がっています。(A4サイズ3枚ビッチリ)

今、画面に向かっている私の怠慢で更新が出来ていませんでした。〇〇〇〇◇長、誠にす

みません。今後は、400字程度で不定期に書き込み致します。

「前回の続き」

 日本人は古くから海藻を食べてきました。食用海藻のことを「め」といいました。わかめ、

あらめなどです。例えば下関の対岸の門司に「和布刈(めかり)神社」という古社がありま

す。この神社の行事に和布刈の神事がありまして、大晦日の除夜神宮が衣冠束帯して海

に入り、鎌で「め」を刈りとり、神に供えます。日本人が食用にしてきた「め」のなかで昆布

がもっとも食生活にかかわりが深いように思われます。むかし昆布のことを「ひろめ(広布)」

と読んでいたこともあるそうですが、頻度が高くなく、現在では「コンブ」と一般的には呼ばれて

います。

(つづく)

2011年6月13日 (月)

はじめまして

当社は社名の通り昆布加工業です。

創業して100年(大正14年)近くになりまして、私で七代目になります。

現在では主として。おやつといいますか、お菓子の部類に入る昆布製品を製造販売しております。

こんな商売をしていると、しょっちゅう

 

「昆布って北海道で採れるはずだが、なぜ広島なのか?」

 

と、質問を受けます。

この際ですから、少し昆布の歴史についてお話ししたいと思います。